人間ではなく魂が存在している舞い

玉三郎さんを、歌舞伎を、生まれて初めて観てきました。

もう、口上のときから、玉三郎さんの所作の美しさに
目が釘付けです。

そして、舞。
ひとつ、ひとつの動き、目のまばたきにさえも無駄がなく
全神経を尖らせて舞っているような素晴らしさでした。

休憩時間はあんなにざわざわしていたのに、会場全体が
息をひそめ、玉三郎さんの舞に酔いしれているのが伝わります。


玉三郎さんの顔を正面で捉えて拝見できる瞬間が何度かあったのですが、
目があったように感じるその瞬間、息をのむ感覚に捕らわれます。

あの感覚は何だろう?

ギラギラとしたところは勿論、全くないし、
さわやかという言葉はあまりにも軽すぎる・・・

他の役者さんには人間というか、その人そのものを感じたのに
玉三郎さんにはそれがない

演じているときの玉三郎さんは玉三郎でなくなっている・・

・・そうだ!「神々しい」だ!

玉三郎さんと目があったとき、息をのむ感覚に捉われるのは
神々しいからだ!


・・と、玉三郎さんの他の役者さんと違う存在感の違いを
私なりに納得することができました。


もう人間玉三郎から離れて、魂で舞っている

そんな表現がふさわしい感じです。


佐渡の太鼓集団(名前を忘れました)の方々と玉三郎さんが
アマテラスの練習をされるドキュメントを見たときの話です。
玉三郎さんに指導してもらっているときは、気楽に話せていた皆さん
でしたが、いざ玉三郎さんが一緒に舞台稽古に入った途端、
萎縮してしまいいつもの力を発揮できないという場面がありました。

その理由がやっと昨日、わかった気分になりました。
舞始めた途端、もう、彼は玉三郎を超えた存在になっていて
その人と同じ舞台に上がる、ということに怖気づかれたんだろうなと
感じました。

亡くなった棟方志方さんが版画を彫っているとき、
有名な演奏家ソリストが音楽を奏でるときなどにも
人間が存在しているというより、魂が存在しているのを
感じるときがあります。


自分の大好きなことを仕事にして、それをそのレベルまで昇華することが
できたらなんて素敵なことだろうと思います。

私もそんな風に仕事に取り組んでいけたら死ぬときに自分の人生全てに
感謝したくなるだろうな、そんな風になれるように精進したいと感じました。